電磁波過敏症

論考「実験的経絡論」


第一章・経絡の再評価について


 1、経絡論の展開
 最近になってあらためて経絡の実体というものについて考えるようになった。というのも古典的中国医学用語としての経絡は、いまでは鍼灸医学や気功でのみ標榜され、かろうじて認識される程度の存在でしかなくなってきている。医学的にみても、それこそ普遍的に認知された専門用語と言うわけではない。これは曖昧な経絡という概念だけが一人歩きして、いわゆる科学的視座からは全く無視されてしまっている中途半端な状況ということに他ならない。

 古典医学情報としての経絡は、現代にあってはもちろんそのまま無批判に認知されるものではない。ただ、いまの中国医学全体の評価のされかたからみれば、経絡についても同様に、ここらで新しい分析整理があってもいいのではないかという前向きな期待も出てくるというわけである。

 これまでにもいろいろな形で経絡についての議論はされてきたが、それは臨床的な場での診断治療に応用するしないの論点に終始して、経絡本体の解明という本質的な議論には展開していきにくいものであった。

 もちろん科学的批判のもとで、古典的経絡理論の存在を肯定し続けていくことは容易なことではない。たとえば現代の科学的教育課程を経てきた若い世代からみると、鍼灸医学のこの経絡論ほど不可解で陳腐なものはないわけであって、そのまま無批判に受け入れられていくものではないはずである。

 経絡を否定してしまうにしても、当然そこには厳密な意味での科学評価という公平なスタンスが備わっていなくてはならない。そうした認識の上で、経絡に関わるそれらの諸現象を現代の医学、生物・物理学的情報と照らし合わせ、総合科学的な分析というものが成り立ち得るかを検討していくことも、科学主導の現代では必要なのではないだろうか。

 しかしながら、こうした試みに取りかかるにしても我々の手元に大がかりな実験機材や検査機器が揃っているわけではない。しかも、生理学者や科学者という専門的立場にいるわけでもない。そういう状況にあってさえ、現時点でどのような挑戦が可能かということになれば、それこそ冒頭からこの唐突な試行は行き詰まってしまうことになろう。とにかくこの点を明確にさせておく必要があるというわけである。


 2、思考実験ということ
 周知のように現代医科学の世界では、最先端のX線解析やNMR分光器といった各種の検査機器を駆使しての研究が進み、その素晴らしい研究成果が次々と発表されてきている。それらの研究者の科学的英知は細胞レベルで生命現象に迫りつつあるが、近年そうした探求の姿勢の内には中国医学とも共通する発想や新しい評価がなされるようになってきている。つまり、これは中国医学自体がもはや一方的に異端視される時代ではなくなってきているということをも意味している。

 同じ生命現象を捉えるにしても観察という基本的レベルに於いて、全く異質、あるいは全く別物の体系が同時に成立していくということは科学的理論の上では成り立たないはずである。たとえ、探求の手段が異なるにしても、医学的情報ということで生命現象に再評価を加えていくならば、両者の間に補足補完できる新たな展開が必ず出てくるはずである。当然、医学に関わる多くの未解決の問題や課題についての情報は常に存在し続けているわけであるから、経絡という特殊な古典医学情報もここで再評価される機会があってしかるべきだと考えるわけである。

 そうした意味での科学者の言葉を捜すと、たとえば著明な生化学者スティーヴン・ローズの著書「生命の化学」序文には、現時点での科学的研究に対するはっきりとしたスタンスとその状況とが端的に書かれている。そこには次のようにある。

 「生体制御のしくみ、細胞の調節、細胞構造の詳細、生体全体の部分としての細胞の働き、遺伝的増殖やホルモン支配や大脳の記憶や思考のしくみといった大きな問題が未解決のまま残されている。難病の予防や治療の問題はもちろんのことである。」

 実に明快な説明である。いうまでもなく現代の最先端科学をしても解明尽くせない生命現象は確実に存在している。
 そして、これらの研究範囲をめぐってはそれぞれの専門分野が細分化されたというより、むしろその対応する科学の裾野が大きく広がり続けていることにも注目しなくてはならない。これが現代科学のダイナミックな姿であり、ここにこそ多くの医科学者が参入している理由がある。これは生命現象というものの解明には、医科学だけの範疇には収まりきれない広範な科学情報の解析と、それに対応するハイテクの検査機器とが必要になってきているということに他ならない。

 現代のそうした科学の世界では、中国医学分野でも注目しておかなくてはならない事実が次々と出てきている。たとえば現代物理学には理論物理学という分野があるが、これは着実な理論と数式とで思考実験を繰り返し、目で見ることの出来ない量子力学の世界を解明していくものである。この量子力学が生命科学の世界でも、やはりこうした最先端の研究成果が注目されるようになってきている。物理的エネルギーであるシンクロトロン光による生体分子や蛋白質の構造解析の研究などがそれである。

 もちろん量子力学でなくても、生命に関わる分野には生化学、分子生物学、生物物理学さらには細胞生物学といわれるものがあるが、そこでも微分方程式やフーリエ変換法など数学や物理学が精緻な解析のための手段として活用されている。
 実に驚くべきことである。これは生命現象のうちにも物理や数学理論が成り立つ規則性、法則性があるということに他ならない。同様に、現代の画期的なコンピューター・シミュレーションやコンピュータートモグラフィー(CT・断層装置)という手法にしても、生物学的データ(数値)が幅広く取り入れられる作業があって、はじめて視覚で確認できる画像処理が可能となる。

 こうした科学的発想の飛躍的転換が試みられる現状にありながら、独り中国医学情報だけが単なる自然哲学的な過去の遺物として取り残されてしまうことは重ね重ね残念なことであり、我々としてはこれに手を拱いている時ではないのではあるまいか。

 このような現実的な観点に立って行き着いたことは、数千年前から経験的医学情報として記録されている「経絡」というものに対して、可能な限り再評価していく「思考実験」という手法を取り入れてみるという考え方であった。


 3、経絡をどう捉えるか
 古典医学書に表記される経絡をそのまま受け取ると、大抵の場合はどこまでも線状の環流ラインを想定してしまう。この環流ラインに数多くの経穴が点在するという捉え方である。人体には十二本の正経と八本の奇経とが存在し、これらによって生体エネルギーである気血栄衛が全身隈無く環流しているとされる。(図1参照)
 これについては「霊枢・本蔵篇」に、「経脈は気血の行る所にして陰陽を栄養し、筋骨を潤し関節を利するものなり」とある通りであり、経絡図という表現方法がいまでも当然のように受け入れられている。

 鍼灸医学ではこの経絡を中心に診断や治療のシステムを構築していくところの、いわゆる古典的発想の「経絡治療」という手法もある。さらには、これに関連づけられる「奇経治療」という特異な治療法も一部では研究されている。
 正経も奇経もそれぞれ古典には相当量の記述はあるにしても、数千年の時間を経ているだけにそのままでは評価しようにも文献情報としての信頼性には限界がある。つまり綿密な現代語への翻訳作業が再度必要になるわけである。当然、古典の直訳ではどうしても理解できない部分が出てくるはずである。

 それでも、現代の我々にもどうにか理解できる医学的情報の記述も一部にはある。
 生体の循環機能について古くは「准南子・精神訓」に「夫れ心は五臓の主なり。四肢を制使し、血気を流行せしめ・・・」とあるし、「素問・五臓生成論篇」には「諸血は皆心に属す」、さらに(「宣明五気論」)に「心は脈を主る」、「心は生の本、神の変なり。その華は顔にあり、その充は血脈にあり」(「痿論篇」)などとある。ここには、体の血気(脈気)は心臓が送り出していることがはっきりと示されているわけである。さらに、「肺は百脈を朝め、精を皮毛に輸す」(「絡脈別論」)というように心肺機能、それも肺のガス交換作用をもすでに示唆している記述さえ出てくる。

 この経絡を強いて西洋医学理論に該当させれば、やはり血液・リンパ液も含めた体液循環系(免疫機能を含む)と自律神経系(血管運動神経機能を含む)を髣髴とさせるものであるが、これとてそのまま受け入れられないとする意見も鍼灸分野では少なくない。

 もちろん全身循環という概念やそれに関わる環流ラインが存在するという発想自体は、医学史からみても西洋医学に先立つ古代中国医学の先駆的発見であることには違いはない。それも生体エネルギーともいうべき気血が循環して全身を栄養するわけだから、明らかに循環系が関与している明白な事実として解釈しても少しもおかしくはないはずなのである。
 ただ、全身隈無く気血が巡るとしても、その気が循環する経絡自体を十数本の細いラインで単純に集約してしまうには当然無理がある。もしもラインとして特定できるものであれば、それは実体のある器官として古典の記述通りに存在していなくてはならないはずである。これが現段階の経絡概念の最大の矛盾点である。

 ここらは文献情報だけに頼ることの不安があるにしても、とにかく経絡系にしろ血管系にしろ、生体内に何らかの流動体が通る道筋があるということは捕捉できるということだけが文献上の事実なのである。問題は、それが少なくとも目で見て確認できる明確な生理学的現象としての存在以上でなくてはならないということなのである。

 気というものが絶え間なく生体内を流動しているという古典的な経絡説にしても、これ自体を否定する専門家は少なくない。それが気功家自身であったり、鍼灸師であったりと、もっとも肯定してもおかしくない立場の人がそうであるから、問題はいよいよ複雑になるわけである。たとえば本場中国の中医の間でも、それは同じ状況があるらしい。

 以前、この経絡の有無についてあるセミナーで、講師である気功師にも直接質してみたが、経絡の存在に関しては肯定も否定もされなかったのを覚えている。また著名なある武道家などは、気の存在を身をもって体現されているのだが、中国医学でいう経絡自体は存在しないのではないかと、実に興味深い指摘をされている。

 さらに気功師や鍼灸師のなかには、人体の気が視覚で捉えることができる、見ることができると書いている人さえいる。個人的には気功セミナーの講師にはいろいろと質問をしてみるが、すべて納得のいく解答が得られるわけではなかった。そうしたもどかしさは、経絡や気の循環、さらに外気功の問題に共通することである。こういう場合、当方の質問のパターンはいつもこうである。・・・

 ・練功中には経絡の流れを実際に知覚するかどうか。
 ・外気功で放出される気(外気)はある種の信号を伴った波動エネルギーではないか。そのエネルギーの放射自体はやはり一種の電磁波動であり、同調・増幅作用があるのではないか。

 ・放出されるその気のエネルギーは生体のどの部分から放出されるのか。
 ・またどのような種類の気が作用しているのか。それは本来衛気といわれているものなのか。

 ・気のエネルギーが生体から発せられるものであるということであれば、それに感受反応するのは、同様のエネルギー波動を持つ生体でなくてはならないのではないのか。

 ・つまり機械的、電子的装置でそのエネルギーの実体、もしくは流れを直接捕捉していこうとする試みにはシールドの限界があり、結局生体を何らかの形で介在する方法でしか検知できないのではないかと考えるがどうか。
 ・生体自体の気のエネルギーの増減は、人体のエントロピーの増減というレベルで捕捉し、理論的な説明ができる可能性があるのではないか。etc・・・

 一方的なこうした質問にも答えてくれる講師ももちろんおられるし、同様の考えを出される場合もある。ここでさらには科学的視点からの疑問に対して、それこそ解明したいことはいくらでもあるわけである。
 現代の生理学からいけば人体の循環システムの最終点には六十兆にも及ぶ細胞があり、これらの生命活動を維持しているという厳然たる事実がある。しかし、このようなパイブライン的認識のもとで、これらのシステムはすべて機能しているのであろうかという素朴な疑問がここでも出てくる。

 つまりそれだけの生理学的理論付けで生体細胞の栄養補給や酸素の補給、さらには老廃物や二酸化炭素の排泄交換はすべて説明が可能なのだろうかということなのである。六十兆もの細胞の生命を維持しコントロールするという発想を頭で描いた時、人体は神経系や血管系のネットワークやパイプラインを構成する神経線維や組織細胞だけで、体内はどうして満杯になってしまはないのだろうかという、素朴な疑問の方がまず先に出てくるように思うわけである。

 微細な毛細血管になれば、それは確かに赤血球より細くなり、赤血球自体がひしゃげて通過するほどの細さになるとしても、そこから先の分子レベルの循環システムは何がどのように効率よく機能しているのであろうか。ここでは、やはりミクロの生体膜の機能に注目しなくてはなるまい。少しでもこの生理的コントロールが機能しなくなれば、生体の組織細胞はたちまち壊死してしまうはずである。
 この当たりに、中国医学でいう経絡説や気の流動というものの現実的評価という新たな可能性が出てくるわけである。


 4、経絡を肯定するということ
 後世(江戸時代)の西洋医学流入時の翻訳作業(解体新書)でさえ、この経絡という古典的語彙にぴったり当てはまる解剖学用語は出てこなかった。全身に及ぶ循環という概念だけの比定ならばそれほど大きな問題ではなかったろうが、気の包含する広範な生理機能や経絡が環流するとされる実際のルートとの医学的比較検証となると、その特異な部分が大きく立ちはだかることになった。結局、経絡は循環系だけでは収まりきれない古代中国の身体観そのものということで片づけられてしまう。

 さらに体表面における経穴との関連性を突き詰めていくと、これは全く異質の生理観を提示したものになってくる。しかも古典的鍼灸医学では経絡・経穴が直接治療システムに連動していることをも考え併せれば、そう簡単に翻訳比定作業で片づけてしまうこともできなかったのではないかとみるわけである。同様に今日においても経絡を現代医学的に特定することは非常に困難なものである。

 通常、経絡の環流は各臓器器官に集約された形で説明されるが、実際は経絡の支流が毛細血管同様に全身の細胞組織にまで流入しているという古典情報をここでは確認しておく必要がある。そのことを踏まえた上で進まないと現実的経絡論は基本的には成り立たない。つまり組織や細胞から離れた位置に経絡の支流が個別に存在していると考えるのではなくて、それらに隣接密着した位置に存在しているとみるべきなのである。これが本論の基本的捉え方である。(図2参照)

 それと、経絡が生体のみに出現する過敏な生活反応帯であるとか、機能的連絡機構であるとしても、見方を変えるとこれにはいろいろな疑問点が伴う。そもそも経絡や経穴は身体に異常が出現して始めて、経絡・経穴として察知され得るものなのかも知れないわけである。これは少なからぬ人が指摘する問題点でもある。

 病症がなければ経穴反応も経絡現象も希薄なものになることは当然のことである。生体に何らかの病変があって始めて経絡現象や経絡変動に繋がるはずであり、その病的変化の一部が経絡存在の個々の傍証として、あるいは病証反応そのものとして報告されているともいえるわけである。もとより健康な時には、個々の経絡流注を意識することとて少なかろうと思う。

 奇経反応にしてもそれは同様であって、疾病による変化として捉えた場合でも必ずその反応が、すべて八総穴に出現してくるわけではないし、常時その存在が探知できるものでもない。

 厳密に言えば、この奇経というのは正経の循環調節補助機構ということであるが、経絡全体を考える上では非常に重要な機能的特徴を持っているといえる。しかも正経と奇経とがどのような相関関係にあるのかを追跡していくことも、ここでは特に興味深い研究課題だと考えている。臨床的側面からみても、この奇経八脈自体が経絡システムを解明する重要な手がかりを秘めているといえるし、その最初の足掛かりとなるのも奇経現象というように考えている。

 その主な理由といえば、経絡現象や病症によってはそれぞれの奇経反応が出現する特異な時と場とがあるということなのである。それはちょうど奇経の機能的な窓口(経穴)が、いくつかのパターンを伴って突発的にオープンした状態になるということでもある。

 こうした反応については一六世紀・明朝の李時珍がその著書「奇経八脈考」で、「内景と遂道は、ただ返り観る者のみ能くこれを照察す」と表明している通りであろうと思う。要するに、普通の状態では、経絡というものは容易に察知できないというわけである。

 いや、ここで経絡感知を気功に付随するものとか、生体の機能的生活反応帯として早々と片づけてしまえば、いよいよ実体のない対象になってしまうであろう。それこそ東洋的「気」の概念の曖昧なレベルに戻ることになる。既成概念として、経絡と気とをそのような形で同列に並べてしまうことは、ここでは可能な限り避けたいところである。というのは、流動するものとその通り道とが共に実体のないものであるとすれば、厳密な意味での解剖学的特定作業はここでも到底不可能なものになってしまうはずである。

 しかしながら、少なくとも経絡を肯定する立場で本論を進めていくとするならば、一応の取っ掛かりが欲しくなる。そこで意識的に次のような選択肢(仮説)をまず設定してみることにした。

 1、気は流動する物理的(波動)エネルギーであり、経絡はその気の流れに付随する実体のない機能的生活反応帯である。
 2、気は流動する物理的(波動)エネルギーであり、経絡はその通路であって解剖学的実体のある連絡系である。


 本論では選択肢の2を恣意的に選び論を進めることにするのであるが、気の存在とその実体、経絡の存在とその実体というようにそれぞれを可能な限り追求していきたい。

 しかも、未知数の領域にある経絡や気について正面切って対峙していく以上は、手応えのある結論に持っていきたいと考えている。経絡や気に関わるいくつかの実験を通してこれを証明していきたい。

 ただ、ここで確認しておきたいことは、古代中国人の人体構造に関する知識については従来より論じられるように、決して稚拙なものではなかったのではないかとするのが当方の基本的考え方である。それは、いかに太古の時代とはいえ、少なくとも肉食慣習がある以上いまの比較解剖学(動物解剖学)に共通する生活文化としての観察者としての視野があったことは否めないからである。

 それこそ現代人一般より動物の解体作業に直接関わったであろう古代中国人には、内蔵器官の位置関係や形状といった知識は十分にあったはずである。この点の証左として、古代にはカンバリズム・食人習慣も戦時、飢饉時に頻発した可能性も大きいことが報告されている。当然、古代中国では儒教思想が浸透する以前に、何らかのかたちで人体解剖も我々が想像する以上に実施された可能性があるわけである。

 「霊枢・経水」にあるように「その死するや、解剖してこれを視るべし」という実証的観察眼が当然あったはずであるし、これら「黄帝内経」などの医学書が編纂された時代に古代人が血管や血液の存在に全く関心がなかったと考えるほうがおかしいわけである。むしろ、血液循環のみに捕らわれない広範な体液循環の存在を経験的に発見していたことが窺われる。
それを医術に携わる者が発展的に経絡というシステムに集約したとみることも出来るわけである。このように考えると、始めから古典的中国医学理論のすべてを大雑把なものと決めつけてしまうことは早計であるといえる。

 古典の記述には大雑把に取られがちなマクロ的表現もあれば、反対にミクロの見方と取れる部分も雑然と並んでいる。古典医学における経絡の捉え方は広範な経験医学情報の集積ということもできるが、やはりそこにはミクロとマクロの両面から洞察した結果としての医学情報が未整理のまま混在しているといえるわけである。そのために経絡の本質が曖昧で概念的・思弁的な表現内容になってしまったとも言える。     



第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章
第7章 第8章 第9章 第10章 第11章 第12章

発行日 1998年1月16日


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